昭和48年03月11日 朝の御理解



 御理解 第23節
 「氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。」

 神と仲善うする信心。教祖金光大神の偉大さ、素晴らしさと、まあ云うなら、金光教の独壇場と云われるようなものを、最近特に感じられるのですけれども、例えばこの二十三節なんか、その一つの代表的な御理解だと思いますね。神と仲善うする信心、さわらぬ神にたゝりなし、と言った様なね、自分の都合の良い時だけ、神様と言ったりするのじゃなくて、神と仲善うする信心。
 いろいろに 最近は教祖金光大神さまの、本当にその素晴らしさとゆうものを、聞いて頂く訳ですけれども、教祖金光様とゆう方はどのような風にして、神様に近寄っておいでられたか、どのようにして、神様に近づいておいでられたか。教祖様が四十二才の時に、大患、今の医学でいうと、のとげを患われました、もう湯水も通らんようになって、もう命を危ぶまれる程しの状態になられた。
 そういう時に、親戚の方達がみんな集まられて、一生懸命その時分教祖様は、いろんな神様やら仏様やらを、信心好きでおありになった訳ですから、拝んでおられる。石鎚の神を拝んでおられた、新谷の次郎とゆう方に神がかりがあった。そして「この家の主人豹尾金神に無礼あり。」と、いうお伝えがあった。そこで教祖様の奥様の、お父様に当られます方、古川八百蔵とゆう方が進み出て、神様のお伝えに対して、いわゆる反抗を試みられた訳ですね。
 「他の者ならいざしらず、この家の主人に限って、そう言う事は絶対にありません」とゆう意味の事を言っておられる。それは教祖様の日頃の生活態度、又は日頃の手篤い神信心の様子を、お父さんはよく知っておられますから、他の者ならいざ知らずだけれども、この家の主人に限っては、そのような事はありませんと、神様に対してから言い訳をなさる。それを床の中で聞いておられた教祖様が、床の中からはいはいをしながら御神前に出られて、只今氏子の申しました事、人間凡夫で相分かりませず、どこにお粗末、御無礼があったやら分らん。
 当時の豹尾金神様といや、それこそ悪神邪神のように思われておられた訳です。例えば家を建てるのに、金神様のお許しも頂かずに家を建てたりしたら、大変な事になると、そんなら信じておったそういう時代なんです。それで小さい家を四方に広げておられます、教祖様は、それで家相を見られる方に見てもろうて、家を扱うてはいけないと言う事で、その家を一応空家にしなければならない、というので納屋の方へ移られて、そしてこの家を一応空家の事にして。
 そして金神様には、空家というお届けをして、そして小さい家ですから、四方に広げたと仰っておられます。広げた事ですから、どちらの方に金神様に、御無礼があったやら分からないと、只今氏子の申しました事は、平にお許し下さい、というてお詫びをされた。私は今日御神前でね、「のどけのこと、のどけのこと」と言う事を何回も頂いたんです、私はどう言う事か意味が分からなかった。
 そして今日、この二十二節を頂きましてヾす、神と仲善うする信心神を恐れずに近寄るようにせよ、恐れるようにしたら信心にはならん、という風な御理解を、今日頂きましてね、改めてのどけのこと、のどけのこと、と、今皆さんに聞いて頂いたお話なんですこの事がね、教祖の神様の、云うなら信心の素晴らしいところであり、同時に独壇場です、お釈迦さまでもキリスト様でも、もう相済まん事です。
 いつもお釈迦さまやらキリスト様を例に出して、けどまあ世界の大宗教というのですから、だから他の何々様でもいゝです、けれどもそんならお釈迦さまでもね、例えばキリスト様でも、神様に詫びると言う事は、ひとつも教えておられないと言う事です、私は今日、それをあらためて分からせて頂いた。お釈迦さまは、どっちかというなら、高慢ちきな感じですよね、まあ哲学と云われる位ですから、願わん頼まん、ちゃんと立派な生き方さえしとけば、と言った様な生き方をなさっておられる。
 キリスト様でもです、只奇跡を現された、沢山奇跡を現された方ですけれども、それは只神様に、お助けを乞われたというだけであります。そこから沢山の教えがありまして、その教えは、もうそれこそ素晴らしい、天地の道理であり、天地の法則なのですけれども、そういう例えば神様へ、近づいてゆかれる、その手だてというものが、教祖様のような生き方を、なさっておられない訳です平に平にお許しを乞われる、お詫びをしてゆかれる、そこにです。
 お詫びをしてゆかれる教祖様、それを詫びれば許してやりたいのが親心、とゆうその心へピッタリと寄り添う事が出来られた、お詫びによって、お詫びによって、神様の核心と云うか、シンに触れられる事が出来られた。今日も又あらためて、この事を頂きましてね、教祖様の素晴らしいところ、人間凡夫の事で相分からず、どこにお粗末、御無礼があるやら分らん、奥様のお父様から見てもです、もうこのように信心の手篤い人間はあるまい、といわれる程しの教祖様。
 ですからこの人に限って、神様にお粗末御無礼のある筈はない。といわれる程しの事だけれども、いゝえいゝえ、そうではありません、人間生身の事でございます、凡夫の事でございますから、どこにお粗末、御無礼があるやら分らん、と平に平にお許しを乞うて、神の足元にひざまずかれた。そこにです、そんなら神様が高飛車に、うん詫びるなら許してやろうと云うのじゃなくてヾす。
 それこそもう許してやりたいのが親心なのだから、その親心と、その詫びられるその教祖のお心と心とが、一つになった詫びる姿勢の中からです、神様と接近しておいでられた、神様に近寄っておいでられた、と言う事の素晴らしさ、もう今日は又改めて、素晴らしいなと思うのです。お釈迦さまの、沢山の経文を読ませて頂いても、キリストの説いておられるバイブルを見せて頂いても、そういう詫びて神様に接近すると、いうところ迄いっておられん、側まで行っておられるという感じ。
 只天地の道理に合うた生き方さえすりゃあ、おかげはもらえるという風に、お釈迦様は説いておられる、そうするとキリスト様はどうかというと、例えば死人でも、よみがえらせる為には神に向って祈られた、それも只そこに奇跡を現して下さいという頼みをなさったヾけである、願いに筋が無い。教祖様も願われた、御教の中にいくらも有ます、一心に頼めとか一心にすがれとか、と言う事を仰っておられます、けれども、それはどこ迄も実意をもって一心にすがれ、と仰っておられます。
 これはこゝのところもキリスト様とは全然違うところです、こゝに例えば盲がおるから、この眼をあけてください、と言う様な願いです、眼をあけて頂いたら、この氏子をどうゆう風にお役に立つように致します、と言った様なものは筋金が通っていない、こゝで最近言われる五つの願いなんかというのは、もう教祖様の御教にもとづいて、あの五つの願いが出されたんですけれども。
 どうぞ健康にならせて下さい、子孫繁昌 家繁昌のおかげを頂かして下さい、家庭円満にならせて下さい、という願いも、真実の御用が出来ますように、という願いも、その神様のお心を分からせてもろうて、その神様のお心に添い奉りたいから、真実のお役に立たせて頂きたいから、健康を願う、実意をもって願うというのでしょうが、教祖様のは、実意をもって願うところから、教祖様は 神様に近づいてゆかれた、神と仲善うする信心、神様と近づいておられた。
 これはお詫びとか願いとか言う事、又はお礼という、金光教の信心は、お礼とお詫びと願い、という風に言われます、祈りの内容はその三つの事がです、神様へいよいよ近づいてゆけれる、仲善うしていく信心、と言う事になっておるです、金光教の信心はもう本当にね、それこそ平に平にお許しを乞う、徹頭徹尾お詫びに徹すると言う事が、神様に近づいてゆく一つの方法であると、言う事が分かります。しかも神様のシンですか、お心にピッタリ合う事になるのです。
 そげんお詫びするなら、こらえてやらじゃこて、と言った様な事でなくて、神様の方がもう、詫びれば許してやりたくてたまらんでおられる神様なんです、親神様とはだからその、許してやりとうてたまらんというその親心と、詫びられる心がピタツと一つになる、そこからいよいよ仲善うなる、いわゆる親子が、仲善うなっていかなければおられない信心。こゝのところは、いわゆるどういう宗教、宗派もね、こゝのところをこの様な風にして、説いておられるところはないと思います。
 昨夜、お月次祭が終ってから、もういわゆる、いつも文男先生が月次祭の時には、足をもみに来てくれますけれども、ゆうべ来ませんもの、それからもう来んとじゃろうと思うて、電気消してやすんどったら、もう一時位になってから足音がします、高橋さんと二人でやつて来た、「どうしとったですか」と言うたら、そしたらこげな風で、どこどこに行っとったからとこう言う。
 まあ、それから又電気をつけて、それから足をもんでもらった、それから足をもんでもらいながら、もう一時ですから、もう今日はテレビはありよるめえというてから、いいよりました、いや一時から二時あるのが時々あるけんで、ありよるかもしれんばい、というてから、ちょっとこう、チャンネルを入れましたところがね、もう今始まったばかりの洋劇がありよった。
 まあそれから一時間なっとん有る訳です、もう一時です、もうそれをですね、もう文雄さんが子供のように喜びます、それはどう言う事かというとですねえ、「いやあ、これは又一時間はせわなし、足もまにゃん」と、こう口では言ってる訳です、あれがもうおしまいがたかなんかならば、もうすぐ帰ってよか、もう一時もなるとじゃけん早う帰らんの、早うやすまんのというところでしょう、もう一時ですよ
 ところが、それ入れましたところが、ほんな今始まったばかりのところであった、こらどんこんされん、又一時間なっとんおらにゃと、まあ口では言ってますけれども、実はもう嬉しゅうしてこたえん、と言う様な態度を見せます。私は今朝の御理解頂いてね、私は信心はそれだと思うのです、文雄さんがまあ、例えばおかげ頂くなら、そういうところがおかげを頂くところです。
 あれがしよう事なしだったら心の中で、今から又二時迄せわないと、本当二時迄有りました、こっちも迷惑なもんと思いながら、やっぱ嬉しいですね、その間足もみながらテレビをずっと見よる訳です。もう明日が早かつじゃけんで、もうてえげえで、と例えば思うても矢張り嬉しいです、私は神と仲善うする信心とは、そう言う事だと思うです。側に高橋さんがおられましたから、今私が申しました雰囲気とゆうものは、一番よく知ってありますけれど。
 「これはもう高橋さん又一時間こゝにおらにゃんばの」と、口ではそういう風な意味の事をいいながら、実際は嬉しゅうしてこたえん、というごたる態度を私が見とる訳です、ですから私も嬉しいです。まあ月次祭だけ位な事ですから、たまにそんなら、親と子がこうやって一緒になるのじゃから、三十分よりも一時間おれる方がいゝと、言った様な感じなんです。それにもう、先生の側によると、何か用を言い付けなさる、又あれを頼みなさる、これをいいなさるから、もう出来るだけ、もう先生の側にゃ寄らんがよか、という人も沢山有ります。
 それからというて、皆さんがまあ、そんなら毎晩いっちょ足もみに行こうと、いうても又困りますから、そうゆう例えですからね、そういう例えばその時にです、本当に嬉しいか、どうかと言う事なんですよ、例えばそんなら、先生から御用を云われた時にです、心の中であゝあと、例えばあゝあと言う様なものでなくてです、それを嬉しゅう思う心です、神と仲善うする心というのは。
 金光様の信心は、そういういうならば、心がけをもって神様と仲善うする、神様に接近してゆく工夫を、なされなければいけません、それを私は今日は、とりわけ金光大神の信心の、いうなら素晴らしいところ、それを新たな面で又、今日は発見させて頂いたという気がする。それはどういう風にして教祖様は、天地の親神様と仲善うする信心をなさったか、近づいておいでられたか。
 第一にお詫びをする心、いつも謙虚でおありになった、人間凡夫で相分からず、どこにお粗末、御無礼があるやら分からないという姿勢をもって、平に平にとお詫びをしてゆかれる所にです、そのお詫びを受けられる神様はです、親神様ですから、もう本当に詫びれば許してやりたいのが親心、その親心と詫びる心との心が一つになる、そのようにして一つになっていく、いわゆる近づいてゆく、神様に接近しておいでられた。
 これは特別、今何回も申しましたように、これはもう、教祖金光大神の、これはもう独壇場です。例えばそんなら、願うと言う事もです、それこそ、牛馬の事に至る迄、もう願えとこう仰っておられるけれども、その願いには必ず、実意をもって願えと仰っておられる。とりわけ最近こゝでいわれる五つの願い、と言う様なものが、いかに神様と接近してゆく事の、その手段であるかと言う事が、いよいよ分からせて貰います。
 今日はそう言う事を、神と仲善うする信心、神に近寄るようにせよという御教を、そのような風に頂いたのです。お互いの信心の心がけが、用のある時には接近するけれど、用のなか時にはもう出来るだけ、さわらん神にはたゝりなしというごたる風に、さわろうともしてこない信心では、金光様の信心ぶりにはならないと言う事を、私共教祖金光大神は、そういう素晴らしい信心の一面というものをです、私共の信心の上にも、頂いてゆかなければ、教祖の信心を頂いていくと言う事には、ならないと思うですよね。
   どうぞ。